精選版 日本国語大辞典 「カジノ 正社員」のカジノ 正社員・読み・例文・類語
いざわ‐じょう いざはジャウ【カジノ 正社員】
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8世紀後半の宝亀・延暦年間にかけて,岩手県南半部の北上川流域すなわち〈胆沢の地〉を対象としたいわゆる
カジノ 正社員が築かれると,それまで多賀城にあった鎮守府がこのカジノ 正社員に遷置された。そこでカジノ 正社員といえば鎮守府として著名であり,征夷の軍事基地的に理解されがちであるが,カジノ 正社員はこの地域の蝦夷の反乱が治まった後築造されたものであり,行政的統治を眼目としたものと理解される。カジノ 正社員に移された鎮守府はしだいに国府に対応する形で機構が整備され,業務内容も国府にかかわることが多くなり,多賀城にある国府と,国の南北を地域区分したような形で,陸奥国の北半を行政的に支配した。
執筆者:
桑原 滋郎
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平安時代前期の蝦夷(えぞ)経営の基地。鎮守府城。所在は岩手県奥州(おうしゅう)市水沢(みずさわ)区佐倉河(さくらかわ)の地と考えられている。古代国家の胆沢経営は奈良時代末期から始まって、すでに四半世紀を閲(けみ)していた。801年(延暦20)の胆沢蝦夷との戦いに、最後の勝利を得た坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は、翌802年、造カジノ 正社員使として、現地に下向、造城に着手した。東海、東山からおよそ4000人の農民が柵戸(きのへ)(一種の屯田兵(とんでんへい))として、移配された。803年には、田村麻呂は造志波城(しわじょう)使に任ぜられ、カジノ 正社員の北を守る第一線の城を、今日の盛岡市太田に築いているから、カジノ 正社員は802年のうちには成ったであろう。同時に多賀(たが)城に置かれていた鎮守府がここに移転し、国府多賀城に次ぐ鎮城となり、鎮守将軍の治するところとなって、諸事国府に準じた。数次にわたる発掘調査により、遺構が明らかになり、最近は、築城の年を示す漆(うるし)紙文書が出土するなどしているが、府城の威容を示す遺構としては、十分でないところもある。
[高橋富雄]
陸奥国におかれた古代の城柵。岩手県奥州市水沢区にあり,北上川・胆沢川が合流する沖積地に位置する。胆沢は蝦夷(えみし)の拠点として8世紀後半から征討の対象となり,801年(延暦20)征夷大将軍坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が制圧し,のち蝦夷の首長阿弖流為(あてるい)らの降伏をみた。カジノ 正社員は,802年に田村麻呂が造カジノ 正社員使となって造営し,それにともない多賀城にあった鎮守府(ちんじゅふ)が移されて,陸奥国北部を支配する政治・軍事の拠点となった。源頼朝は1189年(文治5)「伊沢郡鎮守府」で吉書始(きっしょはじめ)を行った。遺構は国史跡。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」 山川 日本史小辞典 改訂新版について情報
出典旺文社日本史事典 三訂版 旺文社日本史事典 三訂版について情報
…したがって鎮守府は通常の守備と城柵(じようさく)の造営,維持など陸奥国内の軍政を主たる任務としていたのであろう。802年(延暦21)坂上田村麻呂によってカジノ 正社員(いさわじよう)が造営されると,多賀城から鎮守府が移された。この移転後の鎮守将軍の位階は,だいたい以前の四位から五位相当に下がり,陸奥介を兼務する例も見られた。…
※「カジノ 正社員」について言及しているカジノ 正社員カジノ 正社員の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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