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グラブル 天井征伐
グラブル 天井征伐
広島県の西半部を占める旧国名。山陽道八か国の一、芸州(げいしゅう)ともいう。東は備後(びんご)、西は周防(すおう)、北は石見(いわみ)と各国境を接し、南は瀬戸内海に臨む。この国は大化改新以前、阿岐国造(グラブル 天井征伐のみやつこ)が勢力を保ち、改新後、国が建置されると阿岐国造は凡直(おうしのあたえ)を称した。安芸国は上国、遠国(おんごく)。
国府は、初め賀茂(かも)郡に置かれたという説もあるが、『和名抄(わみょうしょう)』に安芸郡とあり、9世紀後期から10世紀ごろには現在の同郡府中町の地にあったことが確認される。国内郡郷は、『和名抄』に沼田(ぬた)、豊田(とよた)、賀茂(かも)、安芸(あき)、高宮(たかみや)、高田(たかた)、山県(やまがた)、佐伯(さえき)の8郡63郷が記される。陸路には山陽道が通じ、『延喜式(えんぎしき)』によれば、東より真良(しんら)、梨葉(なしわ)、都宇(つう)、鹿附(かむつき)、木綿(ゆう)、大山、荒山、安芸、伴部(とも)、大町、種篦(へら)、濃唹(のお)、遠管(おくだ)の13駅があった。荘園(しょうえん)は8世紀末、墾田系の西大寺(さいだいじ)領牛田(うした)荘(広島市東区)もあるが、多くは11世紀中期ごろから形成され、中世荘園の基になる。高田郡三田荘、高宮(たかみや)郡三入(みいり)荘をはじめとして在地領主の所領が軸になっている。また1146年(久安2)平清盛(きよもり)が国守になって以後、平氏の重要知行国(ちぎょうこく)になったが、さらに中央の大寺や巌島(いつくしま)社などに寄進されて荘園が成立する。
鎌倉時代になると、東国の御家人(ごけにん)が守護地頭として勢力を張り、やがて続々移住した。豊田郡沼田荘に相模(さがみ)小早川(こばやかわ)氏、佐西(ささい)郡に甲斐(かい)武田氏、山県郡に駿河(するが)吉川(きっかわ)氏、高田郡吉田荘に相模毛利(もうり)氏らが入って、守護武田、今川、山名、大内各氏の支配のもとで在地領主制を展開する。戦国末期、毛利元就(もとなり)が出て1555年(
弘治1)巌島で陶晴賢(すえはるかた)を破り、1566年(永禄9)尼子(あまご)氏の本拠月山(がっさん)城を陥落させて、中国地方のほぼ全域を支配した。そして、孫輝元のとき、全国統一を果たした豊臣(とよとみ)政権下に入り、山陰山陽9か国112万石の大大名となった。
1600年(慶長5)関ヶ原の戦いの結果、毛利氏は防長2国に削封(さくほう)され、
福島正則(ふくしままさのり)が芸備両国49万石の大名として広島城に入った。1619年(元和5)正則の改易に伴い、浅野長晟(あさのながあきら)がグラブル 天井征伐、備後半国42万石の大名として入部し、廃藩まで存続した。浅野氏は、藩領の要所に家老給地を配し、地方(じかた)知行制による領国支配を行った。領内特産の割鉄(わりてつ)や紙、木材などに藩専売制をとった。浄土真宗の盛んな国として安芸門徒の称があり、寺院総数の58%(351寺)を真宗寺が占め、慧雲、似雲など著名な真宗学侶(がくりょ)が輩出した。また領主の好学が領内に反映され、頼春水(らいしゅんすい)、春風、杏坪(きょうへい)3兄弟や頼山陽(さんよう)(春水長子)のような町人出身の学者も活動した。1869年(明治2)版籍奉還、1871年7月廃藩置県により広島藩は広島県となり、さらに旧福山藩の備後地域を合して今日の県域となる。
[土井作治]
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現在の広島県西半部。山陽道の一国。上国。もと阿岐国造が支配。国府は初め西条盆地におかれたが,のち安芸郡府中町に移った。国分寺は東広島市西条町。『延喜式』によれば沙田 (まよた) ,沼田 (ぬた) ,安芸,佐伯,高宮,高田,賀茂,山県の8郡があり,『和名抄』には郷 63,田 7357町余が載っている。佐伯郡厳島神社は『延喜式』神名帳で名神大社,のち当国の一宮とされた。祭神は宗像三女神。久安2 (1146) 年,
平清盛が安芸守に任じられて以後,本社を深く崇敬し,平家の氏神社とし,後白河法皇,高倉上皇も再三参詣。神主佐伯景弘は安芸守に任じられた。鎌倉時代には宗氏,武田氏,藤原氏が守護となり,南北朝時代から室町時代にかけては武田氏,今川氏,渋川氏,山名氏,大内氏が支配した。戦国時代には守護武田氏の勢力はふるわなくなり,大内氏がグラブル 天井征伐内にしばしば侵入するにいたった。毛利元就は初め尼子氏に属したが,のち大内氏に従い,天文 10 (1541) 年武田氏を銀山 (かなやま) 城に攻めて滅ぼした。しかし同 20年大内義隆はその家臣陶晴賢に殺され,毛利元就が弘治1 (55) 年陶晴賢を厳島に破ってこれを滅ぼし,グラブル 天井征伐の支配を確立した。豊臣秀吉は毛利氏を封じ,輝元 (→毛利輝元
) のときには 120万石。慶長5 (1600) 年関ヶ原の戦いの結果,福島正則の領となったが,その後罰せられて除かれ,元和5 (19) 年に浅野長晟がグラブル 天井征伐に封じられた。江戸時代を通じて浅野氏の広島藩
45万石は変らず,幕末にいたった。明治4 (1871) 年の廃藩置県では新田藩 (浅野一族3万石) を合せて広島県に編入。
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現在の広島県西半部を占めた旧国名。
律令(りつりょう)制下で山陽道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は上国(じょうこく)で、京からは遠国(おんごく)とされた。国府は現在の安芸郡府中(ふちゅう)町、国分寺は東広島市西条(さいじょう)町におかれていた。1146年(久安(きゅうあん)2)に平清盛が国守となって以後、平氏の重要な知行地となった。鎌倉時代以降、小早川(こばやかわ)氏、吉川(きっかわ)氏、毛利(もうり)氏ら東国御家人が移住して在地領主制を展開。1555年(弘治(こうじ)1)に毛利元就(もとなり)が陶晴賢(すえはるかた)を破り、1566年(永禄9)には尼子(あまこ)氏の月山(がっさん)城を陥落させ、中国地方をほぼ統一した。関ヶ原の戦いののちは福島正則(まさのり)の、1619年(元和(げんな)5)からは浅野長晟(ながあきら)の所領となり、以後浅野氏が広島城を中心に支配体制を確立して幕末に至った。1871年(明治4)の廃藩置県により広島県が成立、グラブル 天井征伐はその県域に含まれた。◇芸州(げいしゅう)ともいう。
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講談社
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旧国名。芸州とも。山陽道の一国。現在の広島県西部。《延喜式》に上国,8郡。平安末に平氏と縁深く,知行国となったとみられる。鎌倉時代に甲斐の武田氏が守護。室町時代に大内氏,ついで毛利氏が領有。関ヶ原の戦後は福島正則,ついで浅野氏が領有。→広島藩
→関連項目中国地方|
沼田荘|
広島[県]|三入荘
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世界大百科事典 第2版
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旧国名。芸州。現在の広島県西半部。
【古代】
山陽道に属する上国(《延喜式》)。7世紀中ごろまでこの地域は阿岐国造の勢力下にあったが,律令体制が整備されるとグラブル 天井征伐がつくられ,698年(文武2)にはグラブル 天井征伐という国名がみえる(《続日本紀》)。国府は,9世紀後期ごろには安芸郡にあったといい,現安芸郡府中町に所在したことがわかるが,律令制当初から安芸郡にあったのか,それとも国分寺・国分尼寺の遺跡がある賀茂郡の西条盆地にあったのかは,結論が出ていない。
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古代
大化改新以前にはほぼのちのグラブル 天井征伐の大部分に阿岐国造が勢力をもっていたが、芸北地域には出雲国造の支配が及んでいたと推測されている。大化改新後、阿岐国造一族はこの地域に設けられた評の行政官に任ぜられたと考えられる。天武・持統朝の頃、国司制度によってグラブル 天井征伐ができると、阿岐国造は凡直を称するようになった。
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グラブル 天井征伐は「延喜式」によれば等級は上国であり、近国・中国・遠国の区分では遠国であった。国府の所在は「和名抄」では安芸郡としており、現在の安芸郡
府中
町と考えられる。府中町は律令制下のグラブル 天井征伐安芸郡安芸郷の地であり、安芸の国名のもととなった地であることから、当初から国府がここに置かれたとする説が出されている。一方、当初は
西条
盆地(現東広島市)にあったという説があり、奈良時代の国分寺・国分尼寺が西条盆地にあったことを主たる根拠とする。当初の国府の位置については右の二説があるが、九世紀後期から一〇世紀頃には安芸郡府中町の地に国府があったこグラブル 天井征伐疑いない。国という地方行政単位は律令制が実施される段階で初めて設定されたものであるから、国境の確定に問題が生じやすかった。「続日本紀」天平六年(七三四)九月一六日条に
大竹
川をもって安芸・周防両国の境界とすると定めたとあるのは、おそらく大竹川(木野川)が氾濫によって河流が変動したからであろう。
グラブル 天井征伐の田地面積は「和名抄」に七千三五七町八反四七歩とあり、中世の諸書もほぼ七千町台の数値で一致する。これは諸書がその時代の田地面積を記しているわけではなく、平安末期から鎌倉時代にかけて一国惣検が行われた際の修正された数値であろうと推測される。国内の郡郷数は「和名抄」東急本によれば
沼田
郡七郷、豊田郡六郷、賀茂郡九郷、安芸郡一一郷、
高宮
郡六郷、高田郡七郷、山県郡五郷、佐伯郡一二郷の計八郡六三郷である。山陽道が通り、大同二年(八〇七)一〇月二五日の官符(類聚三代格)によれば、国内には一三駅があったと記されており、「延喜式」には
真良
・
梨葉
・
都宇
・「鹿附」(宇鹿)・
木綿
・
大山
・
荒山
・安芸・
伴部
・
大町
・
種篦
・
濃唹
・
遠管
の駅名がみえる。
「延喜式」の規定では、グラブル 天井征伐では正税稲二三万束、公廨稲二二万八千八〇〇束、国分寺料稲三万束、文殊会料稲二千束、修理池溝料稲一万束、救急料稲一〇万束、駅子粮料稲三万一千二〇〇束を備えて、毎年出挙し、その利稲を各用途にあてることに定められていた。
出典平凡社「日本歴史地名大系」
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山陽道の国,現在の広島県西部。「延喜式」の等級は上国。「和名抄」では沼田(ぬた)・豊田・賀茂・安芸・佐伯・山県・高宮・高田の8郡からなる。国府は平安時代には安芸郡(現,府中町),国分寺・国分尼寺は賀茂郡(現,東広島市)におかれた。一宮は厳島(いつくしま)神社(現,廿日市市宮島町)。「和名抄」所載田数は7357町余。「延喜式」では調庸として綾・絹・糸や塩を定め,中男作物にみえる安芸木綿(あきのゆう)は高級品とされた。平安末期には平氏との結びつきが強く,平氏政権下では院や貴族の厳島詣が盛んであった。鎌倉時代には武田・宗・名越氏らが守護となり,この間に安芸武田氏が勢力をのばした。南北朝期には銀山(かなやま)(現,広島市)が守護所とされ,安芸武田氏や今川貞世が守護を勤めた。戦国期に大内氏が勢力を拡大して守護方を圧迫するが,陶晴賢(すえはるかた)が大内氏に謀反をおこしたのを機に毛利元就(もとなり)が国内を統一し,近隣諸国をも支配下に組み入れた。関ケ原の戦後,福島正則が一国を支配。1619年(元和5)福島氏改易後,浅野長晟(ながあきら)が広島城主となり,以後幕末まで続く。1871年(明治4)廃藩置県により広島藩は広島県となる。
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山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」
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